平凡な日々 Vol.6

「自分史」からの脱却。初めてのコストコ。

2.28, 2019

ハガキ職人:落合のダッチワイフ
  • essay
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URBAN TUBEにてこれまでに5本のコラムを執筆させていただいた。
今まではコラムを「書いた」と表現していたのだが、今回は敢えて「執筆」と言わせていただく。それは何故か。前回書いたコラムの反響が思いの外あったからだ。当然、僕は少し偉そうになる。「ああ素晴らしい、ああ面白い、最高だ」的なニュアンスが含まれた言葉が僕の元に届いた。自分としては至極当然のことを書いた訳だが、皆が僕を褒めてくれる。勘弁して欲しいっすわ、本当に。ありがとう。とても嬉しく思う。謙虚に。

 

執筆することがない。いや、書くことがない。
基本的に休日は家から出ないので、バイト先と自宅を往復する日々を送っている。当然ながら、僕の身には何も起きない。何かを書こうと思えど絶えず話題がなく、コタツの中で「なにかしら起これ!!!」とのたうち回っているうちに日が暮れ、締め切りが差し迫ってくる。

 

実際のところ、コタツの中でも何かしらは起きている。例えば、チョコドーナツを食べていたら、パラパラとそぼろのようにチョコが落ちてしまい、コタツの掛け布団に茶色いシミが出来てしまった。次、トイレに行く際にティッシュを手に取り拭き取ろうと決めるも、そうゆう時に限って中々トイレに行く気にならない。シミ抜きを面倒だと思う僕に、気を遣った膀胱が主張を控えているのかもしれない。結局シミになることを覚悟してそのまま寝てしまった。

 

このように目を凝らせば何かしらは起きているのだが、これが書くに値するかどうかといえば甚だ疑問である。外部からの影響がない場合、自らの内部を掘り進めていくことになる。
僕は今までずっとこれをやってきた。所謂「自分史」というやつだ。

 

とても楽だ。日々何かしらを考えるというのは、頭の中で文字を書き溜めるという行為と同義であり、何かコラムを提出しなければならない場合、頭の中で書き溜めていた文字を実際に書き出せばいいだけなのである。

 

だが、「自分史」みたいなものに正直飽きてしまった。そこから抜け出したいと切に願っている。僕と同じくURBAN TUBEに記事を掲載している、他のコラムニストの方々はどのようなコラムを書いているのだろうと覗いたところ、皆「人」に会ったりどこかの「場所」に行ったりしている。

 

これである。僕もこのようなアクティブな文章を書きたい。コタツは未だ温かい。

母親から着信があった。折り返すと、明日遊びに行っていいかと言う。
反射的に「どっちでもいいよ。」と思春期よろしくな返答をすると、母親は面倒になってきただの、疲れているだの、云々カンヌンと言って一方的に電話を切った。

 

次の日になり、少し後悔した。僕は年に二回程実家に帰る。主に、二泊三日滞在する。この前、帰省した際に母親と会話をするであろう時間を算出し、人間人生70年と仮定したところ、僕は母親と残り100時間程しか会話が出来ないことが分かった。そのうちの99時間の会話の内容が近況報告であろう。

 

僕は会社を黙って辞めているので、仕事のことを聞かれてもテキトーな事を答える。銀行のシステム部に配属されたのだが、配属日にその場で辞職したので、何のこっちゃ分からない。「システム部って何をしているの?」と聞かれても、母親が機械に疎いこと良いことに、「主にパソコン。パワポとかエクセルとかをPDF化して、USBメモリに記憶させる。」と自分が知りうる限りのパソコン関係の横文字を一気に羅列、そして畳かけ、母親の思考を停止させることしか出来ない。

 

つまり、99時間嘘の会話をしなくてはならないのだ。

 

そう思うと母親と会う機会を自ら増やし、近況報告以外の会話をしていかなればならない。にも関わらず、25歳の僕は思春期をこじらせたことを言って、母が来るのを拒んでしまったのだ。そんな事を考えていると、母親から着信があり「今何をしている?」と言う。すかさず遊びに来たらどうだと誘うと、もう向かっているとのことだった。互いに素直になれないこの時間がもどかしいと思う反面、家族みたいだなと思った。

 

とはいっても、仲が良いからこそ言葉に出来ないみたいな考えを僕は真っ向から否定したい。それこそ「自分史」を語る下世話なテレビ番組で、事務所にゴリ押しされているおバカタレントが、珍しく神妙な面持ちで、「お母さんへ。素直に言えなかった言葉。」みたいな手紙を、もうこの世にいない彼女に向かって読んでいる光景を見て、身が引き締まるような思いをする。

 

生きている内に伝えなければ意味がない。会話の基本はキャッチボールだ。人生のバッターボックスに母親が立っている内に、僕は内角高めギリギリ精一杯の言葉をストレートに投げたい。何故彼女はバットを握っているのだろう。とにかく、僕は、急いでいるのだ。

 

彼女はどうやら僕をコストコに連れて行きたいらしい。
母親は最近コストコを覚えたらしく、母親の心の中のリトル北斗晶が、母親の心の中のリトル健介に「コストコ行けええ!!」と喝を入れるらしく、それを傍観していた母親の心の中のリトル母親が、ワイドショーを見ている主婦の如く「私も行ってみようかしら。行ってみたいわ!!」と毎度思うらしいのだ。
コストコの恩恵は僕も受けていて、母がコストコに行くようになってから、品出しされる前みたいな段ボールに入ったお菓子が自宅に山程届く。是非、ウチの母親が普段お世話になっているコストコに足を運んでみたくなった。

僕は車に乗るのが大好きだ。いつも後部座席に座って外を眺める。
座っているのに、周りの景色が絶えず変化するというのは大変面白く飽きがこない。あのマンションの最上階に住みたい、この地域の学生だったら通学路としてこの道は選ばない、あそこに住んだらこのコンビニに行く、等々色々な妄想をする。

 

車から流れるラジオは退屈極まりないので、イヤホンをしてApple Musicでシャムキャッツを聞いた。なんていい曲。シャムキャッツは、何かの景色をイメージさせるのではなく、今僕が見ているこの景色を歌っているような気がする。曲が終わって、次の曲に行くまでの間、イヤホン越しに交通情報が聞こえて、今日はいい日だとその時に分かった。

 

他のコラムニストの方々は、皆外に向かった文章を書いている。僕もそれをやってみたいと思った。願ったり叶ったりだ。車の中で、次のコラムはコストコについて書こうと決めた。
僕という名のフィルターを通したコストコではなく、ありのままのコストコをありのまま伝えようと思う。

生活に寄り添った、読んでタメになる情報を。

 

それがURBAN TUBE。

 

本稿のコラムはここから始まる。前置きはここまでとする。

Hey!凡な日々 Vol.6

駐車場は満車だった。一台の車が発進しそうだったので、その手前に車をつけて待ったのだが、中々駐車している車が動かない。何をやっているのかと後部座席から覗くと、成人を迎えて10の年は経過しているであろう、一家の大黒柱と思える男性が、我々を横目に車内でホットドッグを食べていた。人を待たせて食らうホットドッグは美味いか。美味そうではないか。

 

駐車できたのは5分後のことであった。

 

車から降りると冷たい風が足元を通り抜けた。コストコからの洗礼かと思い、思わず面を食らってしまった。母親の慣れた足取りが妙に癪に障るが、家族団欒ということでそこはスルーし、我々は巨大なエスカレーターに乗り店内へと向かっていった。入り口のガードマンに、会員であることを知らせる特別なカードを見せると男は黙って頷き中へ通してくれた。

懐かしい。店内を見渡すとふと幼き頃の思い出が頭をよぎった。それは何故か。コストコがあまりにもデカいからである。自分の目線が赤子と全く同じになる。店内の規模に比例したように置かれている、商品の一つ一つもまたデカいので、自分の目線がかなり低くなったように感じるのだ。

 

自分がこんなにもちっぽけな存在だったことを忘れていた。抱えている悩みが如何に小さなものだったか。以前もこのような気持ちになったことがある。確か、江ノ島の海岸を歩いていた時だった。コストコは海だ。入り口を振り返ると、先程のガードマンがとてつもなく大きく見えた。

 

東京事変の「空が鳴っている」という歌の中で、

 

“野放途きわまりない闇夜見上げれば”
“いまにもはじけ飛びそうに熟れた星”

 

という歌詞があるが、これは椎名林檎がコストコに行った際、天井に煌煌と光るライトを見上げて書いたものではなかろうか。

 

僕は自分のサイズ感を忘れてしまったようだった。
箱根や地方に良くある、トリックアート展のあれと全く同じ作用に自分はかかっていたのだ。

 

すれ違う人々は、皆、慣れた手つきでカートを押していた。カートというのは言わずもがな、商品を入れるためにある。前述した通り、コストコに置いてある商品は一つ一つがとてつもなく大きい。となると当然カートもその商品以上に大きくなくてはならない。目線が赤子になった僕から見るコストコのカートは、最早カーであり、大きな大人達がワゴンRを手で押しているように見えた。
右、左、右と首を振って伸び伸び手を上げながら、行き交うワゴンRの間をすり抜け僕は奥へと進んでいった。
すると何やら甘い匂いが漂ってきた。匂いを発していたのは、ゴルフ場の絵が書かれた巨大なデコレーションケーキであった。こんなにも大きなケーキを僕は初めて見た。感動である。

 

結局、冷凍たこ焼き60個、鉄塔のような大吟醸、トリケラトプスのようなチキン、丸めた絨毯サイズのトルティーヤをワゴンRに押し込んだ。母親と肩を並べて買い物をするなんて、いつぶりだろうか。地元みたいだなと思い、少し感傷にふけった。が、すぐに風情のないデカイ食い物が目の前に現れ、今日は楽しい日だと思わせてくれた。

 

車内がパンパンになってきたので、そろそろおいとましようと出口に向かうも、中々レジに辿り着くことが出来ない。

 

コツン。

 

カーのタイヤが何かを轢いた。ゴルフボールだ。コストコはゴルフ用品も売っているのかと初めは感心したが、そうじゃない。事態は深刻だった。一度呼吸を整え周囲を見渡す。やっぱりだ。遠くにゴルフ場が見える。ああ、そうか。僕は先程まで店の端から端までを歩いていたつもりだった。だが実際のところ、巨大なデコレーションケーキの周囲をグルグル歩いていたのに過ぎず、未だコストコのコの字も歩いてはいなかったのだ。

 

コストコのケーキは広い。おおよそ18ホール分らしい。ではその巨大デコレーションケーキを何十個も販売しているコストコは、一体どれだけデカイのだろう。気が遠くなる思いがした。「母さん、少し休もう。」返事がない。おかしいなと母に視線をやると、それは母ではなく、一体の巨大なハリボーグミのクマだった。何がどうなっているのやら。あまりの広さにどこからどこまでがコストコなのか、その境目を僕は完全に見失ってしまった。

 

コストコが終わったと気がついたのは、次の日バイト先の店長の顔を見た時だったとか違うとか。

 

どうだろう。アクティブな記事が書けていただろうか。ありのまま、見たままのことを記述するというのはこれまで、「自分史」というものに逃げ込んでいた僕には中々難しかった。
俯瞰せず、人や場所の中に入り込んだコラムを出来れば書けるようになりたい。コストコに行った際、そんなことを考えなくてはならない瞬間があった。揺らいだ出来事である。

 

コストコには、所々に試食コーナーがあり、そこに物凄い数の人が列をなしていた。卑しくて恥ずかしい人達だなと彼らを俯瞰していると、最後尾に僕の母親が並んでいた。なんかそれがあまりにも切なくて、だけど愛おしくも思えた。一緒に並ぶことにした。カッコつけてちゃいけないなと、その時強く思った。中に入りこまなくてはならない。

 

たった今、母親から電話がきた。電話の流れで、自分は最近コラムを書いていてそれがネットに載っていると言うと、「あんたがコラムなんて偉そうに」と鼻で笑ってから、読んでみたいと言ってくれた。でもそこには、仕事を辞めたことが書いてあるから見せることは出来ない。母親が納得するような何かしらになって、早くこのコラムを読ませたいと思う。そのためには現状から脱却しなくてはならない。行き交うワゴンRを眺めながら、僕は思うのであった。

 


 

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Profile

  • 落合のダッチワイフハガキ職人

    「お笑い芸人になりたい」と思い、新卒2ヶ月で勤めていた銀行を退社。
    プールサイドというコンビ名で活動中。
    毎週日曜21時からインターネットラジオ「プールサイドの25Mラジオ」を生放送中。趣味はラジオ投稿。
    現在はコンビニでバイトをしながら。日々の生活を楽しんでいる。