下町。Vol.3

境界線のバブルと消えた屋台文化。

7.25, 2018

TRAVELING COFFEE 店主:牧野 広志
  • food&liquor
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さて話しをトンクに戻そう。

 

ここ、東九条と西九条の境界線を持つ東寺道。

最近でこそ人気スポットになり、たった数百メートルの通りに飲食店が数珠繋ぎしている。

 

が、

 

ちょっと前まで道は舗装されておらず砂利道で、雨が降れば水たまりがあちこちにでき歩くのすら困難な道だった。

 

ここもまたホテル開発の波にいち早くのまれ革命的な進歩を見せた通りである。

パイセンと呼ばれる同級で親友兄弟の町。

このお二人、トンクのラリーレヴァン、トンクのジョニーロットンと呼ばれたDJでもある、

マムシの兄弟の通学路、彼らを外してこの通りは語れない。

 

マイメン!

 

腹が減ればこの兄弟の家に行きお好み焼きを焼いてもらい、節分になれば巻き寿司を食べに行き、

奥のガレージから車を出して旅に行き、

倉庫の中でレコードを探し、、、

兎にも角にもお世話になった。

いったいあれから何十年たったのだ・・・?

 

 

さて、いつもの名店物語。

 

すっかりお馴染みの お好み焼き「あらた」。

ここには通称”水前”と言う特等席がある、

いやあった・・

その席は我々の為に作られた席の様なものだ。

 

今では、超がつくほど人気店になり、建物の二階も店舗に作り変え常に満席、

もはや予約無しでは入店できないと言う盛況ぶりだ。

 

その為、水前席は一般席となってしまった、、、

それでも東寺道で育った我々にとって水前と呼ばれる席は地域密着のファーストクラス、ある意味VIP席の様なものだ。

 

電話一本「水前一人」と言えば大将と古株のスタッフにはすぐに伝わる、

 

(なぜ 水前席 かって? それは飲料水を入れる機械の前に無理から作られた角席なので水前席と呼んでました。しかも鉄板の角席なので焼き手の大将に直接オーダーしやすいわけです。)

 

当然メニューも見ない、

「あれと、あれと、あれ」

「あれは、アベックで」

「あれちょうだい」

とほとんどが「あれ」と言う単語で通じてしまう。

当然周りのお客さんは目が点である・・

 

そしていつものやつが順序良く鉄板の上に仕上がってくる。

 

アギ、スジ、ウルテ、ベタ焼き半そば半うどん、で赤ソースも置かれる。

酒はバクダン。赤。

完璧なセットメニュー。

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それでも昔からの常連さんと、新規と言われる街が変わってからの一般のお客さんや観光客、外国人のお客さんにも、全く変わらず笑顔で接する店主やスタッフの姿には脱帽であり、誇りに思う。

 

ちなみに「あらた」はトンクでは無く境界線ギリで西九条になる、

 

京都駅南口、いわゆる新幹線乗り場の目の前の立地でありながら、何十年も放置され、手付かずの下町であった。

 

ある日ここに大型モールが建てられた、

その波で一気にホテルは新しくなり、更に新たに立ち並び、宿泊する人々が下町の味を求めて流れ込んできた。

 

まさか、東寺道がこんなことになるなんて・・

その昔、誰がそんな事を思っただろうか、考えもしなかっただろう、、

 

ただ、このおかしなバブル感も烏丸通までで、もう一本東の竹田街道まで行くと南北は飲食店が数珠繋ぎだが、

竹田街道から山王交番横の東寺道を東に入ればまだまだ昔ながらの雰囲気は残されたままだ。

この話しの続きはまた次回にゆっくりとしよう。

さてさて、

 

東寺道から一本北の細い路地、

誰が名付けたか、サンタフェ通りや、路地裏に並ぶナポリ窓なんかは今でも密かに残っている。

 

(なぜそう呼ぶかって? それはサンタフェの様な風が吹き、またそこにはまるでナポリの窓の様な風景が斜め上に見えたから・・)

 

東寺道新町を北に入る、

 

よく通った銭湯「大正湯」は今も健在です。

ちょっと、

 

話しを昭和の終わりに戻そう、

 

京都駅前の郵便局前にはその昔、屋台が並んでいた、

京都にもバリバリの屋台文化はあったのです。

 

連日の様に先輩と駅前の屋台に行ったり、吉田山の屋台に行ったり、

しかし残念な事に京都からそのグレーな位置付けとされてしまった屋台が消えてしまった、、

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昨年の12月末に、吉田山のふもとにあった吉田神社の屋台、通称”せせり”もその長い歴史に幕を閉じた・・

この屋台は、夕方6時ごろにバンで現れ雨の日以外はほぼ毎日オレンジ色のテントが張られ、

焼き鳥、豚足、おでん、うどん、水キムチ、等々を出していた。

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やってるかどうか怪しい日には携帯電話に電話をする。

すると「はい、屋台です。」と電話口に出る。

「やってますか?」と聞くと「はい、屋台やってますよ。」とお父ちゃんが答えてくれる。

33年通った屋台だ、

いろんなドラマをこのテントの中で見て来た。

無くなると聞いた時には「あぁ、ついにここにも来たか」と、グレーな部分と一つの京都の屋台文化が無くなると言うか残念さが込み上げてきた。

この込み上げる感情は京都駅前の屋台が無くなる時よりも強かった。

それだけ歳を取ったと言う事なのだろう。

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なぜこの話しになったのかと言うと、

 

新京都駅開発によって消えた京都駅郵便局前の屋台の名店「駅前 光洋軒」と吉田山ふもとにあった吉田神社屋台 通称”せせり”は親子関係にあったのです。(確か)

 

この話し、私と同世代より上の方々はご存知かと思いますが、意外に知られていない話しでもある、、

 

京都駅が新しく建て替えられると言う事で、ずいぶん先に無くなってしまった 光洋軒、そして昨年末に無くなってしまった吉田山の屋台、

この二軒が今は元々の地元東九条に仲良く並んで営業をしているのだ。

 

しかも東寺道を少し北に入った場所で、

 

あの吉田神社屋台の焼き鳥がまた食べれるわけです。

 

屋台の形は無くなりカウンター8席で、あの水キムチも食べれて、あの串にくるくると巻きつけた焼き鳥せせりや手羽先も食べれる。

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しかも、若大将はおじいちゃんの駅前光洋軒のネームの入った調理着を着て焼き鳥を焼いている。

その姿を見るとなんだかもう・・・キュンとくるわけ、

 

今は、お父ちゃんは引退して吉田山でもお馴染みの息子さんがお母ちゃんと一緒に切り盛りをしている。

 

久しぶりに行くと「久しぶりですねー。ようわかりましたねここが」と声をかけてくれ、「吉田山からもう40年です。」と、、、

 

創業40年。

 

やっぱり美味い!!!

 

「また当分通わせて頂きますよ。」と、せせりの看板と光洋軒の提灯を振り返り見て、京都屋台文化が消えた事の残念さを改めて知る。

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「京都が京都じゃ無くなって行ってるなぁ」と、お母ちゃん一言に、あちこちお世話になった屋台がフラッシュバックした一瞬でもあった、、

 

祇園の名物「一銭洋食」も昔は祇園白川沿いで屋台でやっていた。

その頃は小さな屋台で椅子を数個前に出し、お金が足りない時はお母さんに「また今度持って来てな」と言われたものだ。

 

2016年には「わら天神の屋台うどん」も46年の歴史に幕を閉じた。

西大路氷室道の駐車場で青いビニールシートで覆われてた屋台、よくカレーうどんを食べに行った。

 

五条の「弁慶」も今の店舗の前に小さな屋台でうどんを出していた。

90年代中ごろまで、

夜中にお腹が空けば屋台前に車を横付けして肉うどんを食う。

 

京都中央卸売市場の東側にもシートで覆われた屋台の焼き鳥があった。

ふらっと立ち寄れば顔馴染みの諸先輩達でいつもいっぱいである、

 

河原町六条を少し南の三角地帯にも短い期間ではあったが屋台が出ていた。

美味しいテールが食べれた、

 

七条河原町内浜の屋台、

 

四条大宮交差点の屋台、

 

北山新町の屋台 通称「元町ラーメン」、

 

あとは、いったいいつ開くんだ出町柳の屋台「はらちゃんラーメン」。

ブログは毎日更新されているのに・・・

 

因幡薬師堂にある組み立て式木造屋台「いなば」。

おでんを食べながら、大将ジロウおじいちゃんに昔話しを聞く、なかなか濃い話しだ。

ただこちらも時間の問題か、、、

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若き日の自分にとって屋台で食べると言う事は日常であり、なんの違和感もなく、グレーとすら思わない美味しいお店だった。

あまりにも屋台が当たり前過ぎて無くなって行ってる事にすらはっきりと気づいていなかった、「あれ、閉めちゃった、残念、」と言う感じで・・

 

今、昔を振り返りどこに屋台があって日頃普通にどこの屋台に行っていたのかすら、ごく一部しか思い出せない、

それくらい京都には屋台文化が根付いていて普段使いの定番だったのです。

 

京都に入洛する他府県の友人知人によく「京都らしいお店に行きたい。」と言われ、それこそ初めはちょっと値の張る割烹や有名店の予約を取り「これぞ京都!」と言う感じだったのだか、私的には日頃庶民はそんなに高いの食べてないんだけどなぁ、、と思いつつ・・

 

次第に京都慣れしてくると、同じ様なクオリティで半額くらいの小料理屋に連れて行く、すると口を揃えて「この値段であってるの?」と驚きを隠せない様子、

 

さらに入洛数が増えてくると、もう地元人も行きにくい、行かないコーナーに連れて行く。こうなると開いた口が塞がらない状態で「なんですかここ?何ここ?ディープキョート!リアルキョウト!」と声を上げる。

その一つが京都屋台文化でもあった。

当たり前の様に日常通っていたグレーゾーンが入洛慣れした人達の心を掴んでいたのも確かだろう。

 

しかし残念な事にその必要だと思っていたグレーゾーンに幕を閉じる日が確実にやって来た、

京都の一つの顔が無くなってしまった、、

 

京都”らしい”食べ物と言うジャンルから一線引いた京都らしさ、

 

消えた屋台文化はそこに足を運んだ人達だけが記憶の中でその雰囲気と味をルーティーンしている。

 

と、

 

少し東寺道から話しはそれてしまったが、、

話しを戻すと、、

 

名物のチヂミ屋「チヂミの王様」は行列だし、お好み焼き「すいそう」に、雀荘に、あっちもこっちも予約がいる。

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考えられない、、、

 

にしても、なぜこの通りだけ異常に盛り上がりを見せているのだ。

 

一体京都で何が起こっているのだ。

 

と周りは言うが、

 

何が起こっているかは、うすうすみんな気づき出している。

 

・・・・。

 

遠い昔にゲットーブロックと呼ばれたストロングストリート 東寺道。

 

砂利道時代にサウスブロンクスで生きた友人達と、

今でもその本質は消える事なく残っている。

眠っている様で眠らない町、

 

京都から消えた屋台文化と、

 

更に拍車をかける粉もんバブルと焼肉バブル、

 

微妙で絶妙な距離感を保ちながら、

ここにも貴方の知らないアナザーキョウトが埋もれている。

アンタッチャブル、

 

決して探してはいけない、偶然目の前に現れる地域文化をキャッチアップして欲しい。

 

さぁ帰りは京都駅のイノダコーヒーで一休み。

 


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Profile

  • 牧野 広志TRAVELING COFFEE 店主

    1966年生まれ。
    94年渡仏、90年代をパリ ルーアン リヨンで暮らす。
    2002年 帰国後、京都の新しい情報発信空間の提案者として文化と地域に密着中。


    -TRAVELING COFFEE -
    昭和2年築の木屋町 元・立誠小学校 職員室で営業していたTRAVELING COFFEE が耐震補強工事の為に高瀬川沿いに建てられた仮設の立誠図書館内で営業。
    図書館の選書はブックディレクター「BACH」幅允孝氏。
    珈琲はブレンド2種類に加え、シングルオリジンは京都府内の焙煎所を毎月選び焙煎家と話し合い常にオリジナルを4種類程オーダーメイド。